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プロジェクトマネジメント全般に関するコラム

第8回:会社と個人との間のパラダイムシフト

 

 

今から約2000年前、現在のイスラエル周辺に住んでいたユダヤ民族は、地中海を中心に急激に勢力を拡大しつつあったローマ帝国との戦いに敗れ、植民地としてローマ人に支配されていました。 当時のユダヤ(イスラエル)には、栄華を極めたソロモン王(紀元前1000年ごろ)の頃の活力は失われており、ローマからの支配に対して自力で打破する力は無く、民衆の間には「救世主が表れ、我々をローマの支配から救ってくれる。」という考えが広がっていました。

 

ユダヤの人々が信仰しているユダヤ教という宗教には、「ユダヤ民族は、神により選ばれた民である。選ばれた民である我々ユダヤ民族だけが、神により救われる」という考え(いわゆる“選民思想”)があり、「選ばれた民である我々ユダヤ民族が、野蛮な多神教を信じるローマ人に支配されることは、プライドが許さない」状況にあったわけです。 民衆の中に「(ローマからユダヤを救う)救世主を待望する気持ち」が強くなる中、「奇跡を起こす青年が居るらしい」という噂が人々の中に流れ始めます。

 

その青年がイエスです。

 

イエスに実際に接した人々も、イエスの言動から彼のことを「救世主」と呼ぶようになります。が、イエスが考えていたこと、実践しようとしていたことは、「支配されているユダヤ民族をローマから救う」ことではなく「全人類をこの世の罪から救う」ことでした。

その結果、「イエスにより、自分達が植民地支配から救われる」と考えていたユダヤの民衆は、その期待を裏切られることになってしまいます。

期待を裏切られた民衆はイエスのことを「ユダヤおよびその神に対する裏切り者」ないしは「うそつき」と考えるようになります。 そして、イエスは捉えられ、処刑されます。

 

私は、ユダヤ教もキリスト教も信者ではありませんので、どちらに荷担することもありません。どちらが正しいとか、間違っている、とかについて言及しているのでもありません。 上に書いたことまでは、ユダヤ教側から見た歴史においても、キリスト教側から見た歴史においても、ほぼどう一の見解の範囲にある部分で、歴史上の事実として考えられている範囲のことだと思われます。(その後の、イエスは復活したのか?しないのか?、イエスは神なのか?人間なのか?、の解釈などから、両者見解は、どんどん分かれていくことになるわけです。)

 

社会全体の価値観(集団を支配する考え)が、非連続に劇的に変化すること、を“パラダイムシフト”という言葉で呼ぶことがあります。

 

イエスの言動はまさに“パラダイムシフト”だった、のだと思います。

 

“人類全体の救済”なんてことを考える人間は、それまでどこにも居なかったわけで、どんな人間からしても、衝撃的な考え方だった、ことは確かなのだと思います。

そういう状況においても、それを信じる人間も少数ながら登場し、もちろん信じない人間も多数居るわけですから、「“イエスの処刑”は、パラダイムシフトが起こる間に発生した二つの価値観の軋轢により、生み出された事件だった」ということもできるのではないでしょうか?

 

「従業員は会社のために働いている」

「従業員は会社の利益を最優先に考える」

「従業員がもたらした売上は全て会社に帰属し、その一部が会社のルール(経営者の腹づもり)により従業員に還元される」

「会社には上下関係があり、「命令する人」と「命令される人」が居る」

こうした考えは、“間違った考え”とは言えません。

ユダヤ人が「救世主とはローマからユダヤを救う人」と考えたことが間違いだと言えないのと同様です。

むしろ、会社と従業員(個人)との関係を説明する考えとして、現状の大勢を占める考え(現状の社会を支配する考え/価値観)なのだと思います。

 

今、そうした現状の考え/価値観に対して、新しい価値観を提示するとしたら、どんな価値観になるのでしょうか?

例えば、それを以下のように考えたら、どうなるでしょうか?

「個人は、社会と自分自身のために働く」

「全ての仕事はプロジェクトを成功させるために実施される」

 

「役務(サービス)の提供によって得られた収入は、必要最低限の管理費用を除き、役務を提供した人のものである」

 

 

 

 

 

 

 

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